病院紹介
東京武蔵野病院の歴史(沿革)
東京武蔵野病院の歴史(沿革)
年 | 西暦 | 月 | 沿革 |
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昭和3 | 1928 | - | 私立東京武蔵野病院 開院 |
昭和18 | 1943 | 4月 | 精神医学研究所の設立に伴い、その附属病院となる![]() |
昭和22 | 1947 | 3月 | 財団法人 精神医学研究所 許可開設![]() |
昭和25 | 1950 | 5月 | 精神衛生法指定![]() |
昭和28頃 | 1953 | - | クローバーマーク制定 |
昭和29 | 1954 | - | 業績集第1輯発刊 |
昭和29 | 1954 | 6月 | 研究棟落成 |
昭和31 | 1956 | 9月 | 女子病棟(3階建・旧東棟)落成 |
昭和34 | 1959 | 3月 | 男子病棟(3階建・旧西棟)落成 |
昭和41 | 1966 | 4月 | 本館(4階建・現 A館)落成![]() |
昭和48 | 1973 | 11月 | 創立30周年記念誌発刊 |
昭和49 | 1974 | 2月 | 精神科作業療法施設承認 |
昭和55 | 1980 | 10月 | 内科・外科・他診療科病棟(3階建・現B館)落成 |
昭和63 | 1988 | 1月 | デイケアセンター・園芸センター・共通棟落成![]() |
平成3 | 1991 | 8月 | 中央棟(現 C館)落成![]() |
平成4 | 1992 | 4月 | 患者家族会(しいの実会)発足 |
平成5 | 1993 | 12月 | 創立50周年記念誌発刊 |
平成6 | 1994 | 3月 | MRI設置 |
平成8 | 1996 | 12月 | 社会療法棟(現 D館)落成![]() |
平成9 | 1997 | 12月 | 第1回院内学会(現 学術交流会)開催![]() |
平成10 | 1998 | 7月 | E館(新棟)落成![]() |
平成10 | 1998 | 11月 | オーダリングシステム始動 |
平成11 | 1999 | 12月 | 西棟解体![]() |
平成14 | 2002 | 4月 | MRI装置(1.5テスラ)設置![]() |
平成14 | 2002 | 8月 | 病院ホームページ開設 |
平成14 | 2002 | 11月 | 東京都夜間休日二次救急医療事業受託 |
平成15 | 2003 | 4月 | 精神科救急(スーパー救急)病棟入院料届出(E3病棟) |
平成16 | 2004 | 3月 | 電子カルテシステム運用開始![]() |
平成16 | 2004 | - | 病院機能評価認定(複合病院(一般、精神))![]() |
平成19 | 2007 | 1月 | 敷地内禁煙達成![]() |
平成24 | 2012 | 3月 | 一般財団法人へ移行![]() |
平成26 | 2014 | 5月 | 病院機能評価認定更新(3rdG:Ver.1.0) |
平成28 | 2016 | 10月 | MRI装置(Maltiva1.5T)設置![]() |
クローバーマークの由来

昭和28年頃、病院のバッヂがないのを物足りなく思っていた当時の総婦長が、院長に相談。早速作ろうということになったものの、良い案が浮かばず考えあぐねていたところ、ある日散歩に出かけた道ばたにクローバー(しろつめくさ)を見つけ、「これにしよう」と思いつきました。
クローバーには様々な言い伝えや花言葉などがありますが、3枚の葉はそれぞれ、希望、信仰、愛情を、そして4枚目の葉は幸せを表すとも謳われ、また四つ葉のクローバーは見つけた人に幸運をもたらすといわれています。これがデザイン化され、看護のバッヂとして使われることとなりました。
その後、昭和58年に新たな所内報が発行されるにあたり、当時の編集部が名称を検討した際、採用されて30余年、当院の象徴として愛されているクローバーがその名称にふさわしい、と所内報の名称(「くろおばあ」)に決定しました。
以降、バッヂ、所内報のみならず、当院のシンボルマークとして、このクローバーが定着しています。
東京武蔵野病院と太宰治
小説家の太宰治は、パビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤)中毒の治療のため、昭和11年(1936)10月、東京武蔵野病院に入院しました。前年患った腹膜炎の治療後に、鎮痛剤としてパビナール注射が始まり、入院直前には一日に十~三十筒も自己注射するほどの状態になっていました。これを心配した先輩作家の井伏鱒二らが、当時太宰が住んでいた船橋の家を訪れ説得した結果だったといいます。
小説「東京八景」(昭和16年)の中で、太宰は入院の経緯を次のように述べています。
「船橋へ転地して一箇年経って、昭和十一年の秋に私は自動車に乗せられ、東京、板橋区の或る病院に運び込まれた。一夜眠って、眼が覚めてみると、私は脳病院の一室にいた。
一箇月そこで暮して、秋晴れの日の午後、やっと退院を許された。私は、迎えに来ていたHと二人で自動車に乗った」(「東京八景」より)
約1ヶ月の治療を経て、完治した太宰は退院しました。退院直後に書かれたのが、「HUMAN LOST」です。太宰にとって、当院への入院は、親しい友人に裏切られ半ば強制的に入院させられたという苦い思いが残る出来事でした。
代表作「人間失格」(昭和23年)では、主人公が「脳病院」に入院し、「人間、失格」を確信するに至りますが、この病院のモデルも当院であると思われます。
ただし、「東京八景」の中で、太宰は東京生活の思い出のひとつとして「板橋脳病院のコスモス」を挙げています。当時、当院の庭にはコスモスが咲いており、おそらく太宰は病室の窓からそれを見ていたのでしょう。それは、入院中の太宰にとっての唯一のなぐさめだったのかもしれません。
「戸塚の梅雨。本郷の黄昏。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼の蜩。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。思い出の暗い花が、ぱらぱら躍って、整理は至難であった」(「東京八景」より)